メモ

先日のゼミにて
「悪」は避けられるべきである限りにおいて、すなわち、いわゆる「善」との関係においてのみ「悪」なのであるというような話を聞く。当たり前の話といえば当たり前の話だが、その話で「悪」の例としてまず挙げられたのが、悪という事で通常考えられがちな「犯罪」や不道徳ではなく、疾病や心身の衰弱などであったのが興味深かった。
最も日常的な意味での「よい」と「悪い」の抽象としての「善」と「悪」。この話をした人は古典哲学の研究者だった。(あんまり日本語でメモして意味のある話なのかどうかは分からないけど、)「なんか調子悪いなぁ」の「悪」、「その歌いいね」の「善」、そこにみられる「悪さ」と「よさ」は、純粋に道徳的な価値としてとらえられがちな、時代遅れの「善」と「悪」の二元論と連続的なもの、というかそもそも同じものだったのだろう。日本語で、良さと善さが区別されてしまうのは、こういった理解を決定的なしかたで阻んでいる。
「善」とか「真」とか「美」をちゃんと分かってる人をみると、西洋哲学がわかってるんだな、すごいな、って感じる。。

おそらく、善悪を価値としてではなく、より実体的なものとしてとらえる、と言う考え方はまだ(と言うか今だから)可能なのだろう。それも西洋哲学理解のための単なるツールとしてではなく、ひとつの主張として。実際、今回驚いたのは、そういう理解をナチュラルに身につけている日本の若者(?)がいたこと。現代の西洋人にとってはどうなんだろ?
ところで、その彼によれば、「悪をリアルなものとしてとらえる。」というような議論は、ほとんどの場合、悪を独立の実在としてとらえると標榜しつつも、まさにその措定・定義により、悪を容れざるを得ないもの、認めざるを得ないものとしてしまう。このことは忌避されるべきものとしての「悪」の本性にそむく、つまりそういった理解からは「悪」の「悪さ」、リアルな嫌な感じはちっとも見えてこないし、実際は悪のリアリティを隠蔽してしまっている(むしろ、このような議論は「魅力的なものとしての悪」と言う文脈に連なる。魅力的なものとしての悪は、大雑把に言うなら「善」ではなくむしろなんらかの規範性にかかわる。これはこれで一つの議論。)善悪を実体的なものとしてとらえるというのはこういうことではなく。他に真と美についてもそう。このときこれらの極度に漠然とした抽象的な概念を、西洋世界は具体的・人格的イメージとして取り扱ってきたということが大事。神々、悪魔、神。image。受肉

権力、規範、法。さしあたっては、これらとは異なる水準で「善」(「悪」)をかたることができるのかが焦点になるか。善の欠如態としての悪もとりあえずは、わきにやっておくのがよいか。規範、価値ではなく。極めて単純な抽象とその人格化と